昭和四十八年十一月二十八日 朝の御理解
御神訓 信心の心得 一、天が下に他人ということはなきものぞ。
一、子を産むは、わが力で産むとは思うな。みな親神の恵むと ころぞ。
最近、私共宗教者、私共信心さして頂いておる者の、今の時代に於いての役割、果たさなければならない事、言うような事がよく頂きます。
それが只、道徳的な、なら、慈善事業的な、慈善事業的なもの、それが宗教家の、又は宗教者の役割のような思い方をしておる人が、沢山あるように思うです。
宗教者が手を差しのべなければといったような事が、只、慈善事業的な事だけ、それがいけないという事ではないけれども、然し私は善い事では決してないと思うですね。宗教者はなんといってもね、私はもっと、もっとそういう上面(うわべ)的なものでなくて、根本的なところのな助かり、そういうところに着眼してのものでなからなければ値打ちはないと思う。
それにはまず、根本的なもの、それを私共は身につけて行くというか、体験するというか、そういうおかげを頂かなければならん。助からなければならん。
その中でです、皆さんに聞いておかねばならん御神訓の、天が下に他人というものはなき事ぞと。それは決して日本人だけではない。世界中のいわば人間氏子、それがみな、天地の親神様の氏子であるという頂き方。いわゆる同胞とこう申しますかね。 天地の親神様を親とする、いうならば、同胞(はらから)であり兄弟であるということ。そういう事実、それが事実なのです。ですから事実を事実として私共がわからせてもらう。ところがそこには、黒かとは嫌とか、白かとは嫌とかいう事になってくるわけですね。
まあ私共は黄色人種ですから、黄色のは嫌だと嫌われる向きも又あるわけです。
普通、私共の周囲、周辺を見ましてもです、赤の他人でも、親戚以上に、いうならば、もうそれこそ兄弟以上に付き合える人があるかと思うと、もう、親戚同志であっても、もう、ああいう奴とはもう親戚付き合いをしないといったような仲が悪い人もある。それが本当の意味に於いてです、私共の考え方が、みな、神様の愛し子なんだ神様の氏子なんだというところが根本的にわかってないからだと思う。
成程、それは鼻持ちならない人もあります。善人もおれば悪人もおります。ですから、ああいう、妙な人とは付き合わん。ああいう悪人はもう自分達の仲間ではないという、そういうところがです、例えば本当のそれが自分の親であるとか、自分の兄弟であるとか、自分の子であるとかであったりであれはです、それが悪人であればある程、困った人であれはあるほど、情が通じてくるのじゃないかと思うです、ね、
屑の子がおればそれが可愛いのが親心がといったような、兄弟の仲でです、少し頭のちっとはおかしいのがおると、それがやはり可哀相なという心が起きてくると思うです、ね。肉親であれは例えばそれが悪人であってもです、ああいう事ではあの人は助からんと思うたらその人の事を、人は嫌うけど、祈らせてもらわねばおられんといったような心が出来てくる。
この人はつまらんから悪人だから私は天が下に他人というものはなきものぞという事を教えて下さってあることは、それが只、そうだね、そうかも知れんなところわかるだけではなくて、情の上に於いてです、そういう思い方が出来るようになる事だと思うです。あれがもし、自分の子供なら、あれがもし自分の兄弟ならば、人は相手にしないけれども、そういうものに、いやました心というものがかけられるような、私はおかげを受けよ、受けてくれよという神様の願いをそこに感じますね。
天が下に他人はないんだと、根っから親神の氏子であり、みんなの兄弟なんだぞと だからそれがそうだとわかり、それがそうだと実感された時に、私はそういう心も自ずと湧いてくるんじゃないかと思うですね。難儀な人があれば難儀な人を見るでです、いうならそれは、慈善事業的な、金が無いで困っておるから金を貸してあげるとか、恵んであげるとかといったようなものは、私は本当の助かりにはならないと思う そのもいっちょ、根本的なところ、その人が心から助かられる道、それには自分自身が助かっておらねばならない。
だから自分のような生き方になったら、この人でも助かられるのにと思うたら祈らねばおられない、話をしなければおられないと。
※ ※ ※ ※ ※ 昨夜の御祈念に吉井の熊谷さん参拝して見えてお届けしとられる。唐島に弟さんがおられる。大学出られて西日本新聞に勤めておられました。
最近は定年になって辞めておられる。家で百姓をしておられる。信心はしなされんでも合楽ファンであり、私ファンの方なんです。いつも時には見えてお参りとか、お参りではなくて、いつも先生の話は聞くという程度の方なんです。
昨日息子さんを連れて二人で見えて、直ぐ帰られるかと思うたら、こしごしと上さね上がって来なさるから、まあお茶でも出しながら夕方までもう、自分でもどうしてあげんお話が出来たじゃろうかと思うくらいにもう一生懸命に話さして頂いた。
お姉さんあなたは一人でほんに優雅な生活をしとんなさるねと言われた。本当に一切何からかにまで恵まれておる。
朝もなければ昼もない、夜もない、合楽、合楽言うて参りよんなさる。はじめの間はあげんのぼせんでもと思いをしておんなさったに違いないけれども、最近はようやくお互い終着駅に近づいてきた、その年配になられてです、姉さんの生き方は間違いない生き方だと。昨日ばかりは私がお話をする事を一々、成程、成程というふうに聞かれてから、最後にその息子さんにお前もいっちょ、どうでんこうでん、いっちょ、叔母しゃまに連れちもろうちから、合楽にお参りする事したがよいぞと、あそこには若い人達が参りよんなさるけん、どうでんこうでんお参りせろと言いなさるけん、なんの子供じゃろうか、あんたがお参りせじゃこて、私だん先がなか、なかけんお参りせじゃこてと言うてお話したという事です。
勿論、これは兄弟であり甥である、だから一生懸命話されたわけですけれども、そういうふうに例えば兄弟だと甥だというふうなそこに情というものがあるから、一生懸命のお話が出来るのです。
なら、それを赤の他人の誰かれというても、いきなりさんぱちにつかまえてお話するわけにはいけませんけれども、そこに縁が生じてくる。
何とはなしにお付き合いをするようになる。そしたら何かの機会にです、こういう情というもの、天が下に他人というものはなきものぞという事がです、本当にわかるようになったら話さなければおられんのであり、そういんう気になりゃ、どうしてこんなに永い時間お話しをしたじゃろうかと思うくらいに、神様が話さして下さっておるのに驚くです。
皆さんも体験があるでしょう。問題は、だから天が下に他人というものはなき事ぞというものがわからなければ出来ん。熊谷さんの場合は実際それが甥であり、弟であると。それこそ何不自由しとるわけじゃないけれども、もうこんなに歳をとってから百姓が忙しゅうて、まあきつい仕事をしとるのに、姉さんは一人暮らしをしとるので淋しかろうとか、困ちょろうというだんじゃない。実に優雅な生活をしなさる。
それに来る度におどろく。しかもお茶と言えば良いお茶が出る。良いお茶菓子が出る。最後には果物が出る。もう無いものがないという状態。
この頃から研修会の時にも話ししておられましたが、今までは必要なものが必要に応じて頂けれるという感じでしたけれども、親先生最近は、必要なものが必要に応じてでなくてですね、充分のゆとりがある。何もかもすべての事に、お金も充分に蓄えてある。物も、例えばお菓子やら果物というたようなものも、ちゃっと冷蔵庫の中を開ければ、何やらかやら、いっぱい入っとる。
さあ、お客さんが来なさったから、あれ借りに行かにゃらんというものがない程に恵まれた生活をしている。しかも、心の豊かな状態が、家全体にです、成程、姉さんあなたは人相も変わんなさったが、こげないわば優雅な生活をしておるとは思わなかった。
子供達がみな、外へ出たから淋しい年寄りのね、淋しい、淋しい生活うしとると思うたら、そげな段じゃない。心賑やかに優雅な生活が出来ておる。
やはり合楽のお神様のおかげだと、その兄弟達が言うてくれる思うてくれる。まあ今日はこうこうと二人上がってきたから、まあ何の話からか、信心の話になって、もうとにかく一生懸命、何時間という永い間お話させて頂いて、それをみんな、以前はそれに反発的なものもありましたけれども、本当にそうだそうだというふうにして聞いて下さって、子供達にお前もどうでもこうでも、いっちょ合楽にもう、若いうちに信心しとかにゃでけん。どうでもこうでも、お前はおばしゃまに連れて参ってもらえとこういうわけなんです。
なら、そういう、甥達にでもお話が出来た、そういう合点させられる程お話が出来るのはです、これはなら、天が下に他人という事はなきことがわかる事だけでなく、それがそうだと信じれるようになる時です。
そこに関わりあいが出来る、そこに関わりあう一つの手がかりとし、お話をせなければおられない。信心が生まれてくる時に、その人のそれをあなたの周辺に心から助かられる、心から優雅の生活が出来れる。恵まれた生活がそこに出来れるとうい事です。中にはもうあんな奴はと、あんな人はと、世間から非難受ける人達もあろうけれども、そういう人であればある程に、他人じゃない思うたら、可哀相だ、気の毒だと思う。その思いはいやまして、募る位な境地が出来る
いうなら、神心というものが段々育ってくる信心が、まあ私共に出来なければならないという事。
私は本当に真の宗教者の役割は、そういう事だと思うんです。形だけの慈善事業をすると、沢山金を持っておる人が、例えば、養老院を建てると、そしてです、あれはスェ-デンですかね、ノルウェ-か、世界で一番福祉的な国家として有名です。
ところがそういう、例えば養老院なんかでも、それこそ、至れり尽くせりの事が出来ておるにもかかわらず、一番年寄りの自殺者が多いという事。生き甲斐喪失者が多いという事の事実をね、私共はなんと見るかと、ししてみると、そういう、いわば、形のことでは人間は助からない事実がわかる。
そこでです、その人を心から救う、心から助けるという事は、それは宗教者の体験から生まれてくる宗教者の役割というか責任を感じる位にですね、私達はまず助かって、この人も助かったならという心をとらして頂くと言うことが、世の中を心配するという事だと思う。
心配とは心配りと書いてある。そういうところに私は宗教者の役割をお互い感じれるくらいにお互いにまず、自分が助からねばならないという事なんです。
ならそこでです、もう一つの御神訓。子を産むはわが力で産むと思うな、みな親神様の恵むところぞという事。
子供を産むという事は、とても自分で作ろう、自分で産もうなんて事ではない。
神様が恵んで下さったのであり、神様が生みなさせて下さるのである。という事は一事が万事、一切が神様のおかげを頂かなければ,立行かない事がわかるという事なんです。あんたで出来る事が何かあるか、あんたが出来たのじゃない、出来させられておるんだ。手をこうやって持っておる。お財布をこうやって私が持っておる。
私が持っておるようであるけれども、持たせて頂いておるんだ。いうならば、許されて持っておるんだという事になる。どうですか、中風の人のこう手の萎えた人にこれを持ちなさいと言うても持てんでしょう。
あんたが自分の力で持ってみなさいと言ったって、持てんでしょう。すとん、すとん落としてしまう。中風でよろよろしとる人に、さあ走れというたっちゃ走る事が出来んでしょう。如何に走らせて頂いとる、歩かせて頂く、動かせて頂いておる、見せて頂いとる、聞かせて頂いとるという事実をね、私共は観念の上にわかるじゃなくて心からそれがわかる時に、おかげで目が見えておる事も有難い、聞こえておる事も有難い、歩せて頂く事の出来に事もまた、有難い。
子を産むはわが力ではない。動いておる事もわが力ではないとわかる信心、そこから有難いなあ、そこから有難いが募ってくる時に、その神恩報謝の心というものが湧いてくる。神恩報謝の心というのが、その神様の心をたいして、神様の心に【】まつろうとする心です、
神恩報謝とは神様がお神酒が呑みたいけんお供えしてくれ、甘いものが食べたいけんぼた餅をお供えしてくれという神様じゃないという事なんです。
神様の心がわからせて頂いてです、神様のおかげを頂かねば立行かん、成程、教祖様が障子ひとえがままならぬ人の身ぞとおっしゃるが、もう本当に障子一重がままならぬ人の身であるいう事実を私共がわからせて頂いて、そこから有難い、勿体ない、その奉謝の心がです、天が下には他人はなき事だというような事実をわからせてもろうて、皆が同胞である、はらからであるとしての頂き方、それを本当にです、昨日の熊谷さんじゃないけれども、弟さんにお話をした甥御さんにお話をした、それももう一生懸命覚えんようになってお話をした。
そして本当の今日の生き方というものをです、話さして頂いておるうちに、信心の尊さというものをわからせてもろうて、いっぺんどうでも参らせてもらいたいと弟さんが甥御さんに言われるようなところまでおかげを頂くということ。
いやおかげをもらって頂くこと、その周辺にですね。それには私共が、これを只、言葉の上だけで、頭の上だけでわかるのではなくて、本当にいわゆる何と申しましょうかね、隣人愛とでも申しますか、私共周辺に誰にもというわけにはいかんから、関わりあいの出来る人達に、それが親身にお話が出来れるくらいの信心をお互い頂きたいと思うですね。どうぞ。